逢紀


逢紀の実像

 『英雄記』によれば、逢紀は字が元図、董卓の洛陽占拠時(189年)に、袁紹、許攸と共に冀州に逃れた仲間だという。聡明で計略に長じており、袁紹に信頼された。

 同書は、董卓との戦いの後、袁紹に冀州の乗っ取りを勧めたのも逢紀だとする。密かに公孫サンに分け取りを提案し、太守の韓プクを怖れさせた上で無血譲渡を迫るという計略だった。これが的中し、袁紹は冀州を手に入れることができた。

 その後、袁紹陣営も拡大していくわけだが、逢紀の役割については、次のように正史の記述に食い違いがある。「荀イク伝」中の、198年時点での孔融の言葉では、逢紀は審配と共に政治の担当者とされている。が、「袁紹伝」が記す、200年頃の態勢では、逢紀と審配は軍務の統括者とされる。軍事担当者なのか、政治担当者なのか、今ひとつはっきりしない。辻褄を合わせようとすれば、河北の統一戦の段階では政治を担当し、曹操との決戦を前に軍務に移ったと考えればよいだろう。

 なお、逢紀と審配の関係については、『英雄記』が1つのエピソードを載せている。逢紀の方が先輩格で、新しく任用された審配とはうまくいかなかった。しかしある人が袁紹に、審配の讒言をした時、逢紀は彼を擁護したというのである。逢紀の審配評は、天性激烈・率直・古武士というものだった。意外な擁護発言に、袁紹が真意を問いただすと、逢紀は個人的感情とは別だと答えたというのである。そしてこれをきっかけに、2人は仲良くなったのだという。

 もう1つ、『先賢行状』という、どこまで信用できるかわからない本によれば、逢紀は田豊を煙たがっていたとされる。公明、率直なので嫌がり、袁紹にたびたび讒言をしたのだという。それで袁紹も田豊を遠ざけるようになった。逢紀は官渡の戦いの後も、自分の策が用いられなかった田豊が、敗戦を喜んでいると讒言したとされる。

 この話の真偽は不明だが、正史の「荀イク伝」で、荀イクは逢紀を評して、向こう見ずで自分の判断だけで動くと語っている。先の『英雄記』の話といい、少なくとも逢紀は、自分を恃むことの強い、あくのある人物だったと思われる。このような描き方がされても仕方がない面もあったのではないか。

 さて、曹操との官渡の戦いである。が、逢紀の活躍を具体的に述べた史料はない。それでも、「軍務の統括者」だったのなら、徴募や兵站などの事務を確実にこなしていたと考えてよいだろう。

 官渡の敗戦後、翌年(202年)には袁紹が病死し、後継をめぐって袁尚派(逢紀、審配)と袁タン派(辛評、郭図)の争いが起きた。「郭嘉伝」では、逢紀は袁尚の謀臣と表現されている。当初、冀州の基盤を確保した袁尚に対し、青州の袁タンが抗議にやってきた。が、袁尚は彼に少勢しか与えず、しかも逢紀を監督に付けた。怒った袁タンは逢紀を斬り殺し、両者の対立は決定的になったのである(袁紹伝)。

 『漢晋春秋』という信頼性が不明な本によると、この後審配は、袁タンに和解を申し入れている。もともと袁尚が後継ぎというのは決まっていた。凶悪な臣の逢紀がいい加減なことをしたので、袁タンが殺したのももっともだ。袁尚も逢紀の妻子を処刑したので、これで猜疑はなくなった。共に戦おう、というものである。逢紀は袁タンの暗殺でもしようとしたのだろうか。それが失敗したので、逢紀に罪をかぶせている雰囲気である。


評価

 郭図と共に、『演義』でヒール役を務める逢紀だが、正史を見てもなかなか個性が強そうである。しかし、決して無能ではない。謀略で冀州を手に入れ、また官渡の戦いでは軍務を引き受けた。後は将軍たちが奮闘するだけだったのである。袁尚を後継にしたのも、それが袁紹の意志でもあったわけで、敢えて批判することではないだろう。

 武力40(実戦派ではないようなので)
 知力84(こんなもんでしょ)
 内政88(軍政家として評価するということで)
 魅力50(う〜ん)



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