淳于瓊


淳于瓊の実像

 淳于瓊の名は、漢末から現れる。『霊帝紀』によると、近衛師団長格の八校尉の1人だったのだという。この時の中軍校尉が袁紹、典軍校尉が曹操、そして淳于瓊は右校尉だった。この縁で、そのまま袁紹に付いて河北に行き、その部将になったようである。

 この次に出てくるのは、『献帝伝』(もとになった『献帝伝』はそれなりに信用できる史料らしい)の以下の記事である。沮受が袁紹に、献帝を迎えることを進言したが、郭図と淳于瓊が反対したというのである。反対の理由は、帝を迎えるとその指示に拘束されてしまうというものだった。

 次は、『世語』(史料価値は不明)の記事である。郭図の讒言により、袁紹は曹操との決戦を前に、軍を3都督制に改めた。その3人が、沮受、郭図、淳于瓊だったというのである。この3人が1軍を率いて、袁紹軍は南下したことになっている。

 最後が、官渡の戦いの山場・烏巣攻防戦のくだりである。これは『三国志』の本文の各所で述べられている。曹操側に寝返った許ユウが、烏巣(官渡から16キロ)の所に、袁紹軍が食糧を集積していると伝えた。これを受け取りに行くのが、淳于瓊の軍勢だというのである。罠ではないかと訝る諸将軍を前に、荀ユウとカクがその攻撃を主張し、曹操が自ら攻撃に向かったのである。荀ユウは、淳于瓊は1万余を率いているが、大将は驕り兵卒はだらけていると述べ、攻撃を主張したのだという(荀ユウ伝)。1万余という人数は、「袁紹伝」にも出ている。この時、沮受は蒋奇を別働隊として派遣しておくことを勧めた、袁紹が聞かなかったのだという。
 攻撃した曹操の兵は5000人(袁紹伝、武帝紀)だったが、淳于瓊はこの寡兵を見て営門の外に陣取ったのだという(武帝紀)。曹操はそのまま急襲しようとしたので、淳于瓊はあわてて陣営に戻った。曹操はそのまま必死に攻撃を続けたのだという(武帝紀)。
 曹操の烏巣攻めを知った袁紹軍では、張コウが救援軍の派遣を主張した。が、郭図が留守の本営を攻めることを主張したので、袁紹は軽装の部隊を救援に向けただけで、主力は官渡に向かった(張コウ伝)。曹操は後ろに迫る救援軍に兵を割かず、ついに淳于瓊を破り、彼らを全て斬り捨てた(武帝紀)。淳于瓊を斬ったのは楽進だったという(楽進伝)。そして救援軍も破られた(袁紹伝)。官渡への帰還の途中、高覧と張コウが降服して合流し、ついに袁紹は敗北したのである(袁紹伝)。

 呉の人間の手によると言われ、曹操が悪く書かれている『曹マン伝』では、この戦いについて以下のような記事がある。打ち破った淳于仲簡(淳于瓊のことだろう)将軍の鼻を削ぎ、督将のスイ元進、騎督の韓キョ子、呂威コウ、趙叡らの首を斬った。士卒1000余も殺し、全員の鼻を削ぎ、牛馬の鼻や舌も切った。淳于瓊は死なないまま曹操の前に引き出され、勝敗は天の所為だと言った。曹操は助命するつもりだったが、許ユウが、鼻を削いだのできっと恨まれると言い、結局殺した。


評価

 実は彼が、官渡の戦いの鍵を握っていたことになる。最初から陣営で待ち構えていたら・・ということである。

 武力74(こんなもんでしょ)
 知力52(なんとも判断できないが)
 内政54(適当な数字)
 魅力61(名門ということで)



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