麹義


麹義の実像

 袁紹や曹操が董卓と戦った時、袁紹に合流していた張楊は突然離脱した。正史は、於夫羅が連れ去ったという書き方をしているが、ともかく於夫羅と張楊は敵になったのである。袁紹がこの追撃に派遣したのが麹義だった。麹義はギョウの南で彼らを破ったようである(張楊伝)。

 さらに、この直後ということになるのだろうが、191年に袁紹と公孫サンは、冀州の支配をめぐって激突した。この時の袁紹軍の軍事指揮官も麹義だった。これは界橋の戦いと呼ばれるが、麹義は自ら先陣を務め、厳綱を生け捕りにしている(公孫サン伝)。

 この戦いについては、『英雄記』も詳しく解説している。公孫サンは歩兵3万余に方陣を組ませ、左右に5000余ずつの騎兵を置いた。袁紹軍の先陣は麹義で、わずか800人だったが左右に1000の弩兵を置いた。そして後方には袁紹の歩兵数万が続いた。麹義は長らく涼州にいて、羌族の戦法に習熟し士卒も勇敢だった。公孫サンは麹義勢を騎兵で潰そうとしたが、麹義は兵士を伏せさせてあと数十歩の所で起き上がらせて前進させた。弩兵の活躍もあり、麹義は勝利を収め、冀州刺吏の厳綱を斬り殺し、1000余の首をあげた。麹義はなお追撃して、引き返してきた殿軍を橋の上で撃破し、軍旗の立つ門を突破した。ところが逃走中の騎兵が袁紹の本陣になだれ込んできた。袁紹も危なかったが、麹義が迎えに来てことなきを得た、と、なかなかの活躍である。

 公孫サンは一旦袁紹と講和し、193年には幽州をめぐり対立していた劉虞を殺した。袁紹は、劉虞の子の劉和に麹義を付け、遺臣の鮮于輔と合流させて公孫サンを攻めさせた。公孫サンは度々敗れ、ついには易京に篭城した(公孫サン伝)。
結局、易京は199年に陥落し、公孫サンは滅ぶのだが、麹義はそれを見届けることはできなかったようである。麹義は功績をかさにきてつけあがり、袁紹に殺されたのだった(袁紹伝)。

 なお、『漢晋春秋』(史料価値は不明)では、袁紹が太行山の賊徒を攻めようとした時、麹義の残党が処罰を恐れて逃げたので、兵をやって掃蕩したとされる。『英雄記』の、涼州方面の子飼いの兵士を抱えていたという話と整合するエピソードである。


評価

 初期の袁紹にあって筆頭に位置する将軍だった。恐らく麹義が粛清された後に、顔良や文醜が抜擢されたのだろう。麹義が生きたままで官渡の戦いに臨んでいたら・・などと考えたくなる。

武力93(思い切ってこれだけ)
知力70(なかなか頭も切れそう)
内政35(わかんないけど)
魅力35(性格悪そう)



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