高順


高順の実像

 高順に関する『三国志』(正史)の記事はあまり多くはない。が、『三国志』が引用する『英雄記』の中には頻繁に登場する。『英雄記』は、元劉表の配下の王サンらが編纂したものと言われ、同時代史料としての性格を持っている。ある意味では『三国志』以上に確かな史料だと言え、正史に準ずるものとして活用できる。

 高順の『英雄記』での初登場は、建安1(196)年の、カク萌の造反劇の場面である。下ヒで起こったこの事件で、呂布は高順の陣に逃れ、犯人には河内のなまりがあったと語ったというのである。高順は、それならカク萌だと言い、軍兵を武装させてその軍を破ったのである。この時、造反に反対していた曹性がカク萌の片手を斬り、高順が首をあげたというのである。

 その次の登場も、『英雄記』である。呂布が自らゾウ覇を攻めようとしたのを、失敗すれば声望が下がるし、坐して待てば人は集まってくると諌めようとしたというのである。結局呂布はゾウ覇を破れず、和睦することになった。

 そして最後の山場が、建安3(198)年の、呂布と曹操の決戦である。この対戦は、劉備が呂布と対立し、曹操の下に亡命するところから始まった。『英雄記』によると、春に劉備の兵が呂布の馬の買い付けを妨害し、怒った呂布が高順、張遼を差し向けたのだという。この時の高順の肩書きは中郎将、張遼の肩書きは北地太守となっている。
 『三国志』の本文でも、沛の劉備を、高順が撃破したとされている(呂布ゾウ洪伝、蜀書先主伝、武帝紀)。さらに曹操が派遣した援軍の夏候惇を撃破し(呂布ゾウ洪伝、蜀書先主伝、武帝紀)、劉備の妻子を捕虜にして呂布に送ったのだという(蜀書先主伝)。

 この後、9月に曹操が自ら出馬し、2度の野戦で敗れた呂布軍は、下ヒに篭ることになる。『英雄記』によると、事態を打破するために、呂布は城を陳宮と高順に任せ、自ら出撃して曹操軍の糧道を絶とうとしたという。しかし妻が、陳宮と高順は仲が悪いと言って反対し、呂布も決心できなかったということである。
 結局、魏続や宋憲の寝返りで城は落ちた。『三国志』はこの時、魏続らは陳宮を捕縛して開城したとするが、『後漢書』では陳宮と高順が捕縛されたことになっている。いずれにせよ、高順は呂布、陳宮と共に斬首されたということである。


 なお、『英雄記』はこれ以外にも高順の逸話を多く載せている。例えば、清廉潔白で威厳があり、酒を飲まず贈り物も受け取らなかったこと、700余人を統率したが1000人と公称し、武器が手入れされていたこと、必ず相手を破ったので「陥陣営」の渾名があったこと、いつも呂布を諌めていたことなど。呂布にはいつも熟慮の必要を説いていたが、呂布はその忠義を認めつつも採用しなかったという。それどころか、カク萌の件で一層疎んじ、高順の軍兵を魏続に与え、戦争ではわざと魏続の配下の兵を指揮させたのだという。それでも高順は、最後まで呂布を恨まなかったということである。


感想

 まさに理想的な武人という印象である。呂布配下の筆頭に位置する部将であり、夏候惇を破ったというのもポイントが高い。いつから呂布に仕えたのか、それ以前は何をしていたのかを知りたいが、それはどうにもならない。

 武力93(これぐらいあってもいいでしょ)
 知力69(単独で部隊を指揮する力があるということで)
 内政58(それなりの頭脳を持っていたので)
 魅力73(誠実だが愛嬌がないということで)



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