申儀、申耽



申儀、申耽の実像

 『魏略』(史料価値は不明)によると、申耽は字を義挙といい、西平・上庸の辺りで数千軒の民衆を集めていた。張魯と通じ、また曹操に使者を派遣して将軍の号を貰った。そのまま上庸にとどまり、都尉になった(恐らく208年の荊州侵攻時の話。もしかすると215年の曹操の漢中占領時のことかもしれない)。

 正史はこの後、219年春に劉備軍に攻められたことを記している。攻撃に来たのは、劉封、孟達、李平(先主伝)、あるいは劉封、孟達(劉封伝)であり、上庸太守の申耽は軍勢をあげて降服した。妻子と一族を成都に赴かせ、征北将軍に任命された。上庸太守・員郷侯としての地位はもとのままだった。申耽は弟の申義を建信将軍・西城太守とした(劉封伝)。蜀への降服について、『魏略』も郡をもって下ったと表現している。

 ところが直後の関羽の敗死に関連して、援軍を出さなかった孟達は劉備に疎まれることになった。孟達は魏に奔り、魏は房陵、上庸、西城の3郡を合わせて新城郡とし、孟達を太守とした。そして夏候尚、徐晃を援軍として派遣し、孟達に劉封を攻めさせた。この時、申義は劉封に反旗を翻し、劉封は敗れて成都に逃亡した。そこで、申耽も魏に降服した。魏は申耽を懐集将軍として南陽に移り住まわせた。申儀は魏興太守、員郷侯になり、ジュン口に駐屯した(劉封伝)。この点について『魏略』も、申義が魏に下ったので、申耽のもとの称号を譲らせて、魏興太守・列侯としたとする。

 魏に下った孟達は曹丕に可愛がられたが、その死後は蜀への復帰を希望していた。魏興太守の申義は孟達と不仲だったので、そのことを内密に上奏したが信用されなかった。司馬懿は参軍の梁畿に調べさせ、さらに孟達に入朝するよう言った。孟達は恐れて反乱に踏み切った(明帝記)。『魏略』によると、孟達の挙兵に対し、申義は蜀との通路を塞ぐ役を果たしたのだという。孟達はすぐに撃破されて死んだが(228年1月)、この後に申義は宛で司馬懿と会った。司馬懿の勧めで参内し、楼船将軍に任じられ、諸侯なみの礼を受けた。


評価

 上庸に根を張る地方豪族の兄弟。荊州に属しながらも劉表ではなく張魯の影響下にあった。それが曹操の荊州侵攻時に曹操、漢中方面から劉備軍がやってくると劉備にと、その都度強い者に付いた。孟達が魏に奔った時には、兄の申耽はすぐには応じず、弟の申義が先に応じた。そのため兄の地位は弟が継承することになった。孟達が再び蜀に戻ろうとした時にはこれを防いだ。まるで節操がないようだが、地方豪族としては仕方がないことだったろう。


武力 58 実戦経験はないかもしれない
知力 54 こんなもんでしょ
内政 60 わりと内政好きのイメージ
魅力 61 数千軒の民衆を従えていたのなら

武力 61 兄よりは実戦派かな
知力 62 兄よりも要領がいい
内政 55 内政への関心は兄より少ない?
魅力 48 こんなもんじゃないかい




戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送